瑠璃光寺→道場門前→JR山口駅♪(7/17)
2021年08月14日
シン・萩往還マラニックのコースからは瑠璃光寺が見えない為
大会前日に見に行っておきました

無事完踏を何度も祈った仏足石

平成30年間のスタート・ゴールを見守り続けてきた五重塔
参勤交代の御成道として作られた萩往還(1604年整備)より160歳ほど年上(1442年頃
建立)、実は瑠璃光寺とは元々「赤の他人」だったそうです
元あった香積寺が萩城築城の材木確保の為に解体→五重塔は山口町民の嘆願により
解体を免れたものの寺を失った為荒廃→長州藩2代目当主(毛利綱広公)が参勤交代の
道中その有様を見てこれはいかんとなり大改修&新しい管理者として仁保にあった瑠璃光寺
(1471年建立)を移転させてきたそうです
なので、五重塔は寺の山門の外に建っています
尚、瑠璃光寺を建立した陶氏はその後、厳島の戦いで毛利氏に滅ぼされています…
なんという因果。

瑠璃光寺から少し登った所にあった、新しめの案内板
山口-萩間の石畳道の始&終点として思い出深い地名・天花(てんげ)

次の地点として記載されている「道場門前」は、今は瑠璃光寺と同じく香山公園にある枕流亭
(山口の脇本陣として使用されていた豪商安部家の離れで、幕末には薩長の密談の場と
なった)が元あった場所であり


肥中(ひじゅう)街道(南北朝時代に周防と長門を統一した大内氏が交易等の為に整備、
道場門前の安部橋から下関市の肥中港までの約62kmを結ぶ)の起点でもあります


今の安部橋は昭和の時代に掛けられたもののようですが

大きくデザインされた大内菱が、かつての大内氏の栄華を偲ばせます

一の坂川沿いには、他にもピカピカの案内板がいくつかありました

「錦の御旗」って例えじゃなくて実在したんですね


山口に来たことを実感する、ちょうちんまつりのマンホール

JR山口駅の玄関で出迎えてくれる五重塔の模型も健在です

大会前日に見に行っておきました

無事完踏を何度も祈った仏足石

平成30年間のスタート・ゴールを見守り続けてきた五重塔

参勤交代の御成道として作られた萩往還(1604年整備)より160歳ほど年上(1442年頃
建立)、実は瑠璃光寺とは元々「赤の他人」だったそうです

元あった香積寺が萩城築城の材木確保の為に解体→五重塔は山口町民の嘆願により
解体を免れたものの寺を失った為荒廃→長州藩2代目当主(毛利綱広公)が参勤交代の
道中その有様を見てこれはいかんとなり大改修&新しい管理者として仁保にあった瑠璃光寺
(1471年建立)を移転させてきたそうです

なので、五重塔は寺の山門の外に建っています

尚、瑠璃光寺を建立した陶氏はその後、厳島の戦いで毛利氏に滅ぼされています…
なんという因果。
瑠璃光寺から少し登った所にあった、新しめの案内板

山口-萩間の石畳道の始&終点として思い出深い地名・天花(てんげ)

次の地点として記載されている「道場門前」は、今は瑠璃光寺と同じく香山公園にある枕流亭
(山口の脇本陣として使用されていた豪商安部家の離れで、幕末には薩長の密談の場と
なった)が元あった場所であり
肥中(ひじゅう)街道(南北朝時代に周防と長門を統一した大内氏が交易等の為に整備、
道場門前の安部橋から下関市の肥中港までの約62kmを結ぶ)の起点でもあります

今の安部橋は昭和の時代に掛けられたもののようですが
大きくデザインされた大内菱が、かつての大内氏の栄華を偲ばせます

一の坂川沿いには、他にもピカピカの案内板がいくつかありました

「錦の御旗」って例えじゃなくて実在したんですね


山口に来たことを実感する、ちょうちんまつりのマンホール

JR山口駅の玄関で出迎えてくれる五重塔の模型も健在です

Posted by むいむい at 10:21│Comments(0)
│雑記
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